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横浜地方裁判所 昭和48年(タ)54号 判決 1980年8月01日

原告 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 下光軍二

同 青柳昤子

同 青山敦子

同 安彦和子

同 石川禮子

同 磯崎千寿

同 井上章子

同 上野登子

同 金住典子

同 小西輝子

同 犀川千代子

同 椎名麻枝

同 白井典子

同 滝島幸子

同 田辺邦子

同 谷口優子

同 土屋勝子

同 中島喜久江

同 中山二基子

同 中垣内映子

同 服部訓子

同 坂東規子

同 平松暁子

同 藤田玲子

同 藤本健子

同 布施順子

同 村井瑛子

同 望月千世子

同 大竹由紀子

同 石川恵美子

被告 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 小池金市

同 朝比純一

同 山田雅康

主文

1  原告と被告とを離婚する。

2  別紙目録記載の土地について本件離婚に伴う財産分与として原告に所有権を移転し、被告は原告に対しこれを原因とする所有権移転登記手続をなし、金一億円を支払え。

3  被告は原告に対し金一一五〇万円及び内金一〇〇〇万円につき、昭和四八年五月二三日から、内金一五〇万円につき本判決言渡の時から各完済に至るまで各年五分の割合による金員を支払え。

4  原告のその余の請求を棄却する。

5  訴訟費用は、これを五分しその一を原告の、その余を被告の負担とする。

6  本判決は第三項に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  原告と被告とを離婚する。

2  被告は原告に対し、離婚に伴う財産分与として別紙物件目録記載の土地所有権を移転し、これを原因とする所有権移転登記手続をなし、金二億九三一二万七九二三円を支払え。

3  被告は原告に対し金二〇〇〇万円及び内金一〇〇〇万円につき昭和四八年五月二三日から、内金一〇〇〇万円につき本判決言渡の時から支払済にいたるまで各年五分の割合による金員を支払え。

4  訴訟費用は被告の負担とする。

5  第三項につき仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  結婚に至る経緯

原告は、東京都中央区銀座の松屋デパートにデザイナーとして勤務していたが、昭和三四年二月ころ株式会社甲野から懇望されその嘱託デザイナーとなった。そして、右会社に勤務しているうち、右会社の代表取締役であった被告と知り合うようになり、被告の熱心な求婚を受け、昭和三六年一〇月から同棲生活に入り、昭和三九年一二月に結婚式を挙げ、昭和四〇年一月二七日婚姻の届出をした。

2  離婚原因

(一) 不貞行為

被告は、昭和四二年春ころから、当時株式会社甲野に勤務していた乙山春子と親密になり継続的な肉体関係を持ち、また、昭和四七年四月ころからは丙川夏子とも肉体関係を生じ現在まで継続しており、そのほか被告は原告と別居以前から丁原冬子、甲海一枝等、四、五名の女性と継続的な肉体関係を有している。

(二) 悪意の遺棄

被告は、昭和四六年一月五日、原告から被告と乙山春子との関係を問いつめられるや、そのまま、家を飛び出し被告の長男宅に居住し原告とは別居するに至り、原告が婚姻の継続を願って同居を求めてもそれに応じようとしない。また、原告の生活費については昭和四七年一二月分まで少ないながらなんとか支払ったが昭和四八年一月分からはその支払をなさない。

(三) 婚姻を継続し難い重大な事由

原告は、被告から次のような侮辱、虐待、暴行を受けた。

(1) 被告は、近所の者に原告の悪口として原告が吝嗇である旨吹聴し、そのとおり信じ込ませた。

(2) 原告は、原告と被告の婚姻生活がうまくいっている間は、被告及び被告が経営する株式会社甲野の発展のため誠心誠意つくし社員からもしたわれていたのであるが、被告は、被告と乙山春子が関係を持つようになると、右会社の社員を原告に近づけないようにし、原告を右会社から退社させ、会社の諸行事へ原告が出席するのを拒否し乙山春子を出席させ、社員達に原告を無視、軽蔑するようしむけた。

(3) 被告は、乙山春子と関係を持つようになってから原告に対しその吝嗇、冷酷、陰険な性格を表わし、原告の言葉尻をつかまえてはいやみを言い、些細なことに文句をつけ、いつも不機嫌であり、原告に対し理由のない叱責をなし、しばしば暴力をふるうようになり、種々陰険な手段によって原告を妻の座から排除しようとした。

(4) 被告には前記(一)記載のような不貞行為があったが、その相手方である乙山春子は原告の遠縁にあたるものであり、丙川夏子は、原告の長年の友人であった。そして右乙山春子は原告が被告に頼んで株式会社甲野に入社させた者であった。また、被告は、自宅に来ていた近所の未亡人と原告の目前で一時間近く、同女の胸に手を入れたり、肩を抱いて頬擦りをしたりしてふざけ合い、そのあげく原告に女性としての魅力がないと口走ったりしたことがあった。そのほか、被告が短期間関係をもった女性は数多く、それらの女性と原告を比較し原告の欠点を言いたてた。

(5) 被告は、被告と乙山春子が関係をもつようになってから原告のすること、なすことをすべて悪意にとり、原告に対して殴る、ける等の暴力をふるうようになり、別居後も、原、被告が二人で会った際、原告が被告の離婚要求に応じないことに憤激し、殴る、けるの暴行を加えた。また、被告は昭和四七年三月三一日原告を突然訪れ、離婚を強要し、これに応じない原告に対し殴る、ける、髪をつかんでひきずり倒す、頭を畳に繰り返し打ちつける、両手で原告の首をしめる等の暴行を加え、原告の手足頸部等に全治二週間の打撲傷、小裂傷を負わせた。被告はこの事件につき罰金七〇〇〇円に処せられた。

以上の諸事実は民法第七七〇条一項一、二、五号に定める離婚原因に当る。

3  財産分与

(一) 財産分与の対象

財産分与の対象となる財産の範囲は、内縁期間を含め実質的に夫婦がその共同生活中に直接、間接の協力によって取得した全ての財産であり、原、被告が共同生活を送ったのは、昭和三六年一〇月から、同四六年一月までであったからその間に取得した財産が財産分与の対象となる。その内容は次のとおりである。

(1) 被告名義財産

イ 大阪市南区順慶町通二丁目六〇番地、家屋番号六〇番、鉄骨造陸屋根三階建倉庫兼寄宿舎、床面積一ないし三階とも一二四・六三平方メートル

被告が右建物を取得したのは昭和四三年一月二五日であり、現在の時価は金一五〇〇万円である。右建物は株式会社甲野が使用し右会社に借家権があるかのごとくであるが右会社は被告の個人会社であり右会社の借家権を考慮に入れる必要はない。

ロ 横浜市中区池袋三七番一〇宅地七〇一平方メートル

被告が右土地を取得したのは原、被告が別居する以前である昭和四五年一二月である。仮りに取得したのが別居した後であったとしても、別居後、すぐのことであり別居前に蓄積した財産によって購入されたものであるから財産分与の対象となる財産というべきである。登記簿上、被告が右土地の一〇分の三の、被告の長男である甲野一郎が一〇分の七の共有持分権を有していることになっているが、右一郎には右土地を購入するだけの資力はなく、被告が財産隠匿のために右のような登記をなしたものであり右一郎の持分は名義のみで、実質は被告の単独所有である。右土地の時価は金七〇〇〇万円である。

ハ 横浜市中区池袋三七番地一〇、家屋番号三七番一〇木造瓦葺二階建居宅、床面積一階一二八・〇九平方メートル、二階四二・九七平方メートル、ブロック亜鉛葺平家建倉庫、床面積五・八八平方メートル、木造亜鉛葺、平家建物置、床面積七・七一平方メートル

右三個の建物を被告か取得したのは別居後である昭和四六年一二月三一日であるが、その取得の資金は、原、被告が共同生活を送っていた間に蓄積された財産によるものであり、財産分与の対象財産というべきである。右各建物の時価の合計は金一七〇〇万円である。

ニ 銀行預金 金二億二〇〇〇万円

被告は、原告と同居を開始したころ金一〇〇〇万円の預金しか有していなかったが、被告が経営する株式会社甲野が順調に発展したこともあって、昭和三九年八月ころには金八四〇〇万円ないし金九〇〇〇万円の預金を有するようになっていた。右会社は、その後も飛躍的上昇を続け昭和四一年には資本金を倍増して金一六〇〇万円とし、更に、昭和五〇年にも倍増して金三二〇〇万円としている。また、昭和四九年四月には個人企業としては異例の二割配当を行っている。したがって、昭和三九年八月ころから別居するまでの間も、同居時から昭和三九年八月までの預金の増加率と同程度、または、それ以上の比率で被告の預金は増加している。したがって、原、被告が共同生活を送っている間に形成された預金は少なくとも金二億二〇〇〇万円である。

ホ 株式

被告が原告と共同生活を送っている間に取得した株式は凸版印刷株式会社二万六四〇〇株、株式会社野沢屋一二〇〇株、東洋紡績株式会社二〇〇〇株、株式会社小松製作所九〇〇〇株であり、凸版印刷の株式は一株金四九八円であるから全部で金二〇三一万八四〇〇円であり、野沢屋の株式は一株金三一六円であるから、全部で金三七万九二〇〇円であり、東洋紡績の株式は一株一一九円であるから全部で金二三万七二八六円であり、小松製作所の株式は一株金三四二円であるから全部で金二〇一万〇九六〇円であり右株式の時価の総合計は金二二九四万五八四六円となる。

ヘ ゴルフ会員権 東名中央カントリークラブ。

原、被告が同居を開始した後取得したものであり財産分与の対象となり、その時価は金二〇〇万円である。

(2) 株式会社甲野名義財産

被告は、株式会社甲野の資本金を全額出資し、全株式を所有し、いわゆる一人株主として営業、経理等右会社の業務のあらゆる面で支配的な地位を有し、重要な問題についての決定権をもち会社に対して自己の意思を強制しうる立場にあった。また、被告は右会社が本社と大阪店として使用している二つの建物を所有しているが、右会社と被告との間にいかなる使用関係が設定されているか不明確である。被告は右会社が本社として使用している建物を住居としているが被告と右会社の使用部分が明確に区別されていない。右会社が銀行から資金を借入れるに際し会社の信用ばかりか被告の信用も担保にしている。被告個人の財産と右会社の財産を明確に区別する帳簿が作成されていない等被告個人の財産と会社財産とが混同し、対外的な信用は一体をなしている。また、株主総会等商法の要求する会合は昭和四九年四月以前一回も開かれたことはなかった。以上のことから被告と右会社の人格は実質的には同一というべきであり、したがって、右会社が原、被告が同居開始後別居までに取得した次の財産は財産分与の対象となる。

イ 横浜市南区高根町三丁目一七番五、宅地六六六・五三平方メートル。右土地は昭和四四年二月二七日に取得されたものでありその時価は金二億六六六一万円である。

ロ 東京都中央区東日本橋一丁目二一番地一、家屋番号二一番一鉄筋コンクリート造陸屋根塔屋一階付四階建店舗兼居宅床面積一階八八・四九平方メートル、二階八九・一五平方メートル、三階八二・一四平方メートル、四階七八・七一平方メートル、塔屋一階八・五六平方メートル。右建物は昭和三七年四月二四日取得されたものであり、時価は金一〇〇〇万円である。

ハ ゴルフ会員権 愛宕原カントリークラブ

右ゴルフ会員権の時価は金三七〇万円である。

(3) 仮りに、株式会社甲野と被告との人格が同一と認められないとしても、被告は、別居当時右会社の発行済株式総数三万二〇〇〇株の全てを所有していた。右株式数から原、被告が同居した時点で有していた八〇〇〇株を除いた二万四〇〇〇株が原、被告が同居中に被告が取得した株式であり、これが財産分与の対象となる。右株式の一株の時価は金四三九六円ないし金四八五八円であり、したがって、原、被告が同居中に取得した総株式の時価は金一億〇五五〇万四〇〇〇円ないし一億一六五九万二〇〇〇円である。

(二) 財産形成に対する原告の貢献度

(1) 原告は、昭和二七年ごろ東京池袋の西武デパートの主任デザイナーとして活躍し、昭和二八年五月には銀座の松屋デパートの婦人服のデザイナーとして勤務するようになり、原告のデザインしたブラウスの売れゆきは良く一躍トップデザイナーとなった。そして、原告の当時のデザイナーとしての技能も相当高度なものであった。株式会社甲野は、昭和三三年ころから松屋デパートにブラウス等を納品していたが右会社には専門のデザイナーがおらずセンスも悪く売れゆきも悪かった。そして、原告のデザイナーとしての技能に目を着けた右会社の社員の熱心な要望により、昭和三四年ごろから右会社の嘱託として、勤務するようになり、原告は自分の持てる技能を十二分に発揮して、右会社のブラウスの品質向上のため努力した。また、被告と関係をもつようになってからは被告に対する愛情も加わり被告の事業の発展のためブラウスのデザイン、製図、縫製指導、展示会出品などのため力を尽した。その結果、右会社のオリジナルブラウスとしての評判を高め売上を飛躍的に伸ばし取引先を拡大し、右会社のブラウス部門の基礎を作り上げた。しかし、次第に被告の健康管理や家事に追われるようになり、昭和三八年末ごろからは家事に専念するようになったが、商品の展示会には手伝いに行っていたしブラウスのデザインのアドバイスなどもしていた。

(2) 原告は、デザイナーとしてのみならず被告の相談相手となり株式会社甲野の就業規則の作成や求人のため原告の実家のある新潟の職業安定所、高校などに依頼したり、右会社の社員の見合い、結婚、育児、住宅の世話などこまごまとしたことを引受けて行っていた。

(3) 被告は、昭和二五年ころ胸をわずらい肋骨を六本も切りとっていたため原告と同棲を開始した当時も身体が弱く風邪をひいては、咳や熱、腰や肩の痛みを訴え、ひどいときは月の半分は、寝込むことがあった。そのため、原告は、被告の健康回復のため同居期間中、漢方療法を施したり、朝夕三〇分から一時間の間全身のマッサージをしたり、食事療法を施したり、貼薬をなしたりした、その結果、被告の身体は昭和四一年にはすっかり健康を取り戻した。

(三) 財産分与にあたり考慮すべき特段の事情

(1) 被告は、本件訴訟に先だつ家事調停において、原告が現在居住している建物の敷地である別紙目録記載の土地を原告に譲渡するほか現金一五〇〇万円を原告に支払うという調停案を提出していた。

(2) 被告は昭和一四年六月ころ先妻である海山月子と結婚し同人との間に三人の子供をもうけたが昭和二七年ころ右月子が不貞を犯したことから不仲となり、昭和二八年一一月に別居し昭和三九年九月には協議離婚しているが、右月子に対し財産分与として次の財産を与えている。

イ 別居時

あ 横浜市西区東ヶ丘の土地、建物

当時、建物は平家建で床面積は二三坪であり建物の敷地約五〇坪には借地権が付いていたが、のちに敷地も購入し月子に与えた。右不動産の時価は少なくとも金二八〇〇万円ないし金七〇〇〇万円である。

い 貯金 金二五〇〇万円ないし金三〇〇〇万円

その現在の貨幣価値を消費者物価指数より算出すると金一億一二五〇万円ないし金一億三五〇〇万円となる。

う 株式 三菱重工及び大阪機工 一万一〇〇〇株

右株式の現在の価値は最低金二〇〇〇万円ないし金三〇〇〇万円である。

ロ 離婚時

貯金金三〇〇〇万円

その現在の貨幣価値は少なくとも金九〇〇〇万円である。

以上の現在価額の合計額は金二億七五〇〇万円であり、その他、被告は月子に対し毎月生活費として金二万円を送っていた。以上の中には被告と月子との間に生まれた子供達の養育費は含まれておらず養育費は別に支払っている。ところで月子と原告の被告に対する貢献度を比較してみると、被告と月子との事実上の婚姻期間は、昭和一三年一二月ころから、昭和二四年ころまでの約一〇年間であり、その貢献として考えられるのは、被告の下積み時代、被告と共に生活したこと、被告との間に三人の子供をもうけ養育したこと、株式会社甲野の基礎を作ったことである。しかし、右会社が今日の発展をとげたことに対する貢献は少なく、また、月子と被告が離婚したのは月子の不貞行為にあり、その責任はもっぱら月子にあった。これに対し原告と被告との事実上の婚姻期間は約一〇年間であり、被告が心身共に苦しんでいた時機にデザイナーとして安定していた生活を捨て被告を支えるためにつくし、また、デザイナーとしても株式会社甲野のために大きく貢献している。したがって、原告の貢献度は月子のそれよりはるかに大きい。

(3) 被告は原告に対し自分の財産を相続させないよう原告に対し種々のいやがらせをなし暴力的に追い出そうとした。

(四) 別紙物件目録記載の土地について

原告は、昭和三七年二月一四日別紙物件目録記載の土地を婚約の証しとして被告から贈与を受けた。したがって、右土地は原告の特有財産である。

かりに、右事実が認められないとしても、右土地は原告が所有し居住する建物の敷地となっており、その所有権を取得しなければ離婚後の権利関係が複雑となるし、被告も右土地を原告に財産分与することを認めている。右土地の価額は、右土地にはすでに原告のため借地権が設定されているから約金九〇〇万円である。

以上の諸事実から財産分与について考えるに別紙物件目録記載の土地は、原告の特有財産ではあるが、財産分与は夫婦財産の清算を目的とするものであるし、紛争の一回的解決から特有財産に関する請求を財産分与請求として求めることも許されるというべきであり、また、男女平等の精神、原告の貢献度等を考慮し、右土地のほか、婚姻期間中に取得した財産の二分の一である金二億九三一二万七九二三円を分与するのが相当である。

また、かりに、右土地が原告の特有財産と認められないか、認められるが、特有財産であるがゆえに財産分与としては求められないというのであれば本来の財産分与として分与するのを相当とし、かつ右土地の価額を、財産分与対象財産に加え、それを二分しその一から右土地の価額を差引いた金二億八八六二万七九二三円を分与するのが相当である。

4  慰謝料

原告は被告の前記離婚原因記載の各行為により筆舌に尽くし難い精神的苦痛を被ったが、この苦痛を慰謝するためには金一〇〇〇万円が相当である。

5  弁護士費用

原告は、原告訴訟代理人らに、本件訴訟の目的を達したときには弁護士費用として金一〇〇〇万円を支払う旨約した。

よって、原告は原告と被告とを離婚すること、原告の特有財産である別紙物件目録の土地につき財産分与を原因とする所有権移転登記手続をなすこと、金二億九三一二万七九二三円を分与し、原告に対し支払うこと、右財産分与が認められない場合、右土地を分与し、これを原因とする所有権移転登記手続をなしかつ金二億八八六二万七九二三円を分与し、原告に支払うこと、慰謝料金一〇〇〇万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和四八年五月二三日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うこと、弁護士費用金一〇〇〇万円及びこれに対する本判決言渡の日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うこと、慰謝料、弁護士費用及びそれらに対する遅延損害金の支払を求める部分につき仮執行宣言をなすことを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因一1の事実は認める。

2  同2(一)の事実中被告が昭和四二年春ころから当時株式会社甲野に勤務していた乙山春子と親密になり継続的な肉体関係を持ったこと、丙川夏子とも肉体関係があったことは認めるがその余は否認する。

被告が、右の者たちと肉体関係をもつに至ったのは原告にもその責任がある。すなわち、原告には性生活においても被告に満足を与えない肉体的欠陥があったし、その育ちと教養から被告に対し精神的圧迫を与えた。また、原告は、自己の親族と多く交流し被告の親族とはあまりつき合わず、家庭にも自分の親族を多く招き、被告を孤独へと追いやった。そして、被告の不貞行為を知ってから、原告はその年齢、教養、経験から、その原因を理解し婚姻生活を継続するよう努力すべきであるのに、ただしっと心をむきだしにして被告をせめ、いたずらに婚姻を破綻に追いやった。

3  同(二)の事実中、被告が昭和四六年一月五日家を出て、被告の長男の家に居住し原告とは別居生活を送っていること、昭和四七年一二月分までの生活費を支払っていることは認めるがその余は否認する。

被告が家を出た原因はもっぱら原告にあり、悪意の遺棄には当たらない。原告は、被告の世俗的な考え方を理解せず、また、理解しようと努力もせず被告の不貞行為を知ってからは原告の叔母の月山秋子と共に不貞行為の相手との関係を執ように詰問しなじり続けた。原告は、右2記載の通り、原告の親族を大切にあつかい、被告の身内は疎外していたが、被告が家を出る前日、原、被告方を訪れた被告の義弟の乙月を冷淡にあつかい当日訪れていた原告の親族をのみ厚くもてなした。右乙月が帰った後は被告を疎外し原告の親族と談笑し被告を家にいたたまれなくした。

被告は、原告に対し生活費を毎月送っているし、原告から被告に対しいつでも連絡がとれるようになっていた。原、被告の別居の真の原因は、原告と被告とでは、育ち、教養、経験に顕著な差があり、つりあいがとれていなかったことにある。それゆえ、本件別居は悪意の遺棄には当らない。

4  同(三)の事実中、被告と乙山春子、丙川夏子との間に肉体関係があったこと、乙山春子が原告の遠縁にあたること、丙川夏子が原告の友人であること、右乙山が原告の紹介により株式会社甲野に入社したこと、被告が昭和四七年三月三一日原告に暴行を加え、原告に傷を負わせたことは認めるが、その余は否認する。

侮辱、虐待、暴行を受けたのは原告ではなく被告の方である。したがって婚姻を継続しがたい重大な事由など存しない。すなわち、原告は、原、被告が結婚してから物質欲、金銭欲を露骨に表わし、高価な衣服、調度品を多数、被告に購入させ、また、海外旅行や、家の増改築をさせたり、原告を受取人として被告に生命保険に加入させたりし、その欲深さは常識を越えるものであり被告を困惑させた。

原告は、冷酷、陰険な性格を有し、婚姻後、被告に対し嫌味、文句を言うようになり、いわれのない叱責をし、不機嫌な態度を度々示すようになり、被告が身体の具合が悪く寝ているときに無理矢理起こしたりして虐待した。そして夫婦喧嘩も数回あったが原告は大柄で頑丈かつ力が強く、病弱で小柄、きゃしゃな被告は、常に負かされていた。昭和四七年三月三一日原告が負傷したのも、被告の一方的な暴行によったものではなく、被告が自分の衣服を取りに行ったところ、原告が実力で阻止したため取組合いの喧嘩になりその結果生じたものである。右喧嘩により被告も顔や腕に全治一〇日間を要する傷害を受けた。この時も原告はその陰険な性格をむきだしにし事実を誇張、捏造し、被告を告訴して七〇〇〇円の罰金刑を受けさせ被告の名誉を著しく毀損させたのである。

5  同3(一)の事実中、原、被告が共同生活を送ったのが、昭和三六年一〇月から、昭和四六年一月までであったこと、その間に取得した財産が財産分与の対象財産であること、被告が昭和四三年一月二五日大阪市南区順慶町通二丁目六〇番地所在の原告主張の建物を取得したこと、原、被告が共同生活を送っている間に被告が凸版印刷株式会社、株式会社野沢屋、東洋紡績株式会社、株式会社小松製作所の株式を取得したこと、原、被告が同居中に被告が東名中央カントリークラブのゴルフ会員権を取得したこと、株式会社甲野が昭和四四年二月二七日横浜市南区高根町三丁目一七番五所在の原告主張の土地を取得したこと、右会社が昭和三七年四月二四日東京都中央区東日本橋一丁目二一番地一所在の原告主張の建物を取得したこと、原、被告が同居中に右会社が愛宕原カントリークラブのゴルフ会員権を取得したこと、原、被告が同居中被告が株式会社甲野の株式を取得したことは認めるがその余は否認する。

大阪市南区順慶町通二丁目六〇番地所在の原告主張の建物の建築費は高くとも金一二〇〇万円ぐらいであり、建築後相当期間を経過し、被告は右建物を株式会社甲野に賃貸しており右会社が有する賃借権価額を差引くと、その時価は金七二〇万円以下である。

横浜市中区池袋三七番一〇所在の原告主張の土地は被告と被告の長男である甲野一郎が共同で購入したものであり、持分は被告が一〇分の三、一郎が一〇分の七である。その取得時期は、原、被告が別居後である。かりに同居中に取得したものであるとしても右土地の購入代金は、被告と一郎が銀行や株式会社甲野から借受けて支払っているし、借受けた金については別居後、被告や一郎が取得した給与、被告が有していた株式や不動産を売却した代金によって返済しているから、被告の一〇分の三の持分は特有財産であり財産分与の対象とならない。また、右土地の購入代金は、金三八〇〇万円であり、時価は金七〇〇〇万円と評価するのが相当であるから被告の持分の時価は金二一〇〇万円と見るのが相当である。

横浜市中区池袋三七番地一〇所在の原告主張の建物は被告と前記一郎が共同して建築したものであり、その持分は各二分の一である。この建物の建築資金は、原、被告が共同生活を送っている間に蓄積した財産から支出したものではなく、被告と一郎が横浜市中区池袋三七番一〇所在の土地の購入代金と同一の方法により捻出したものであり、被告の持分は、被告の特有財産である。

この建物の建築費は金一七〇〇万円であり、建築後相当期間を経過しているから被告の持分の時価は金八五〇万円以下である。

被告は、原、被告が同居を開始した時約金五〇〇〇万円ないし六〇〇〇万円の銀行預金があり、また、同居期間中に金八〇一六万二〇〇〇円の所得があった。他方、被告は、原、被告の生活費として金一七五〇万円を原告に渡し、被告の小遣いとして金三二四万円をつかい、不動産の取得代金として金二一五〇万円を支出し、株式を取得するため金二五一万二五五〇円を支払い、被告の先妻海山月子に金三〇〇〇万円を渡し、乙山春子へ金二〇〇万円を貸与し、税金金三九七三万一〇四〇円を支払ったから差引合計は約金二、三〇〇万円となり、これが原、被告の別居時の預金額である。

被告が、同居期間中に取得した株式は凸版印刷株式会社については四万〇八〇〇株でその時価は金一八〇三万三六〇〇円である。株式会社野沢屋の株式は一二〇〇株でありその時価は金三七万九二〇〇円である。東洋紡績株式会社の株式は一九九四株でありその時価は金二一万五三五二円である。株式会社小松製作所の株式は五八八〇株でありその時価は一九一万一〇〇〇円である。したがって、その時価の合計額は金二〇五三万九一五二円である。

株式会社甲野は、原、被告が別居した時点で従業員約一〇〇名がおり年商八億円以上の業績がある会社であって、被告個人の人格とは実質的にも異なる人格を有している。したがって、会社財産を財産分与の対象財産と見るべきではなく、被告の有する右会社の株式を対象財産と見るべきである。

被告は、原、被告が同居を開始した時点で株式会社甲野の発行済株式八〇〇〇株を全て有していたが右株式が表象していた正味資産は金二二七一万四三六三円であった。そして、別居時点で被告は右会社の株式一万七三〇〇株を有しており、右株式が表象する会社の正味資産は金五〇三八万六二五〇円であった。したがって、同居中に増加した正味資産の額は金二七六七万一八八七円である。

6  同(二)(1)の事実中、原告が松屋デパートに勤務していたころ、原告がデザインしたブラウスの売れゆきが良くトップデザイナーであったこと、原告のデザイナーとしての技能が高度であったこと、株式会社甲野が松屋デパートに納品していたブラウスが右会社に専門のデザイナーがおらずセンスが悪く、売れゆきも悪かったこと、原告が右会社のブラウスのデザインに着手してからそのブラウスの評判を高め売上が飛躍的に増大し取引先を拡大し、右会社のブラウス部門の基礎を作りあげたことは否認しその余は認める。

原告が右会社に入社した当時右会社には他にもデザイナーがおりブラウスのセンスが悪いということはなかった。原告が右会社でデザインに従事していたときは、それに見合う給与を支払っているし従事しなくなっても相当期間給与を支払っている。したがって原告がブラウスのデザインに努力し右会社の業績に貢献したとしても従業員として当然のことであり財産分与を考えるにあたっての妻の貢献度とは関係がない。仮に関係があるとしても右会社は、営業の二割程度をブラウス部門に当てているが原告の努力にもかかわらず競争業者が多く利益が出ないため昭和五四年末でその製造販売を打切り原告の努力は無に帰した。

7  同(二)(2)の事実は認める。

会社の就業規則の作成や求人はその大部分が被告の身内のものや、株式会社甲野の従業員、被告の友人がなし、原告が関与した部分は極めて少ないし社員の見合い、結婚、住宅、育児の世話などは当然のことで貢献度として取り上げるほどのこともない。

8  同(二)(3)の事実は認める。

これも妻としては当然のことで特別の貢献として考えることではない。

9  同(三)(1)の事実は認める。

別紙目録記載の土地は、原、被告が同居期間中に形成した財産の六〇パーセントにあたり現在もこの案で十分である。

10  同(三)(2)の事実中、被告が月子との別居時に横浜市西区東ヶ丘の土地、建物 貯金金二五〇〇万円ないし金三〇〇〇万円を与えたこと、右東ヶ丘の土地、建物の時価が金二八〇〇万円ないし金七〇〇〇万円であること、被告が月子に与えた株式の現在の価値が金二〇〇〇万円ないし金三〇〇〇万円であること、被告と月子との共同生活期間が一〇年であること、原告がデザイナーとして株式会社甲野に貢献したこと、原告の被告に対する貢献度が月子のそれよりはるかに多きいことは否認し、その余は認める。

東ヶ丘の建物は、被告と月子が別居する以前に月子と被告との間に生まれた子供達のために買い与えていたものであり、土地については所有権ではなく借地権であった。そして、その現在の価額は約金二〇〇〇万円である。また、月子に与えた株式の時価は金二二〇万円程である。被告と月子が離婚した原因が月子の不貞行為にあったにもかかわらず離婚時に金三〇〇〇万円もの貯金を渡したのは当時被告と同棲中であった原告が月子との関係を早く結着をつけ入籍を被告に要求したからであった。被告は右金三〇〇〇万円を月子に渡すまでは、月子の生活費、子供の養育費を毎月送っていたが、その後は送っていない。被告が月子に与えた財産を現在の価額に引直すと約金一億二五〇〇万円である。

原告の被告に対する貢献度は、月子のそれよりもはるかに劣るものである。すなわち、月子は、被告がなんらの資産を有しない時に結婚し、一五年間、被告と共同生活を送り、その間に三人の子供を生み育て、被告とともに商売に従事し生活の資を得、株式会社甲野の基礎を固めるために努力し、被告が病気中は一人で全生活を切り回わしていた。これにくらべ原告は被告の事業が順調に発展していたころ四〇歳で二人の自己の娘を連れて被告と同棲し、被告の収入で生活しながら自分は株式会社甲野から給料を得それを貯蓄に回し安楽な生活を送っていたし、月子とは異なり原被告間には子供がおらず育児等で苦労したことはなく共同生活を送った期間も九年三月にすぎない。

原告は、別紙物件目録記載の土地上に建物を所有するほか他にもマンションや貯金等を有しており、財産分与として金一五〇〇万円及び右土地を取得することになれば離婚後の生活に何らの不安も存しない。

11  同(三)(3)の事実を否認する。

被告が原告に対し遺留分の放棄を求めたことはあったがこれは別紙物件目録記載の土地を原告に贈与しその生活の安定を計ると共に将来の相続争いを防ぐためであった。また被告が原告を追いだしたものではなく原告が被告に対し種々のいやがらせをして被告を追いだしたものである。

同(四)の事実中、別紙物件目録記載の土地上に原告が所有し居住する建物が建っていること、被告が右土地を原告に財産分与してもよいと考えていることは認めるがその余は否認する。

右土地は原告の特有財産ではなく原、被告の同棲後、被告の名において取得した財産であり財産分与の対象となる。その時価は、金六一八〇万円が相当である。

原告は、男女平等の精神、原告の貢献度から婚姻期間中に取得した財産の二分の一を財産分与するのが相当とするというが、夫婦の共同生活には種々の形態があり一律に二分の一を財産分与するというのは妥当ではなくその夫婦の関係に応じて分与率を決定するのがむしろ実質的平等に適合する。そして、本件における原告の被告に対する貢献度はたいしたものではなく分与率は五分の一で十分である。

同4の事実を否認する。

原、被告の婚姻生活が破綻した原因には請求原因に対する認否2ないし4記載のごとく原告にも落度があり慰謝料の認定にあたり斟酌されるべきである。

同5の事実は知らない。

離婚請求訴訟事件において、弁護士費用の支払を求める根拠は存しない。

第三証拠《省略》

理由

一  《証拠省略》を総合すると、原告と被告は昭和四〇年一月二七日婚姻の届出をした夫婦であって、両者間には子供がいないことが認められる

二  原、被告の共同生活の状況について《証拠省略》によれば次の事実が認められる。(《証拠判断省略》)

原告は、大正九年二月二九日甲花太一、ハナ夫妻の長女として生まれ高等女学校卒業後丁花春夫と結婚し子供を二人もうけた。昭和二〇年丁花春夫が戦死し、生計を立てるため洋裁、服飾デザインを学び、その技術を修得した。昭和二三年終りごろから新潟県にある洋裁学校や新潟県立農業高等学校に勤務し洋裁や服飾デザインを教えていたが、昭和二七年四月には上京し、東京池袋にある西武デパートにデザイナーとして就職した。昭和二八年五月には東京銀座にある松屋デパートに勤務するようになり婦人服のデザインを主に行っていた。昭和三四年二月ころから当時松屋デパートに商品を入れていた被告が経営する株式会社甲野から頼まれ右会社の嘱託デザイナーとなり、週一日程右会社に勤務しブラウスのデザイン等をするようになった。

他方、被告は、大正二年九月一五日甲野太助、タイ夫妻の二男として生まれ、商業学校を卒業後、横浜で繊維関係の会社等に勤務し、昭和一四年ごろ海山月子と結婚して三人の子供をもうけた。その後昭和一八年ごろ徴兵され南方に派遣されたが昭和二一年には復員した。復員後放出物資等のブローカーを始めたが昭和二五年ごろから過労などのため肺結核に罹り、手術を受け、二年間療養生活を送った。回復後の昭和二七年一〇月ころ、絹、人絹によるマフラー、ブラウスの製造、販売を目的とする株式会社甲野を資本金一〇〇万円で設立し、以後今日まで、その経営にあたっている。昭和二七年ころ妻月子が不貞行為をしたことから不仲になり昭和二八年一一月には別居することになった。別居後、被告は丙田花代と同棲するようになり同人との間に子供を一人もうけ、その子を認知した。右丙田とは被告が原告と知り合うころには別れており、また、妻甲野月子とは昭和三九年九月一七日協議離婚をしている。

原告が、株式会社甲野に勤務し始めたころ、被告は、当時同棲していた丙田花代の行状に不満をもち、その関係が悪化していたこともあって、次第に原告に引かれ求愛するようになり、また、原告も被告とつきあい、被告の身上話などを聞くうち被告に同情するようになり、被告の求愛を受け入れ、昭和三五年ころには肉体関係をもつようになった。昭和三六年一〇月ころには、原告が、その子供二人と暮していた東京都品川区旗の台のアパートで同棲するようになった。その後右旗の台のアパートは手狭であったため横浜市港北区篠原北に土地、建物を求め昭和三七年一二月にはそこに移りすんだ。被告は原告と同棲を開始するようになったころには丙田花代とは別れており原告とは被告が先妻甲野月子と離婚した後、挙式して昭和四〇年一月二七日婚姻の届出をした。

原告は、被告と肉体関係を結ぶようになってから被告に対する愛情も加わり、被告が経営する株式会社甲野のブラウスのデザイン等の仕事により一層はげんだ。そして、同棲開始後もデザイナーとしての仕事を続けていたが、被告が前に肺結核を患ったこともあって病弱であったため、その面倒や、家事を見るため昭和三八年暮で仕事をやめ、昭和三九年ころからは家事に専念するようになった。

原、被告の婚姻生活は、円満のうちに過ぎ原告は、一般的な家事の外、被告の健康回復のため漢方療法、食事療法、マッサージなどを施し、被告が経営する株式会社甲野の商品の展示会の手伝い、商品のデザインについての助言、就業規則の作成、従業員の募集、従業員の見合、結婚の仲人、住居、育児の世話などをし、被告の仕事を手伝ったし、被告はその仕事柄、自宅に来客が多かったが、それをもてなし、被告の親族とのつきあいも一応順当にこなしていた。また、被告はワンマンな性格を有していたがこれにもうまく対応していた。

他方、被告も家屋の増築、家具、調度品、服飾品の購入、原告を保険金受取人とする生命保険への加入等、原告の妻としての普通の要求を満していたし、被告が株式会社甲野から取得する給与も原告に手渡していた。原告の腰の治療のため外国の病院を訪れさせたこともあった。そして、原告の二人の子供とも大体うまくやっており原、被告及び原告の子供一人と三人でアメリカへ旅行したこともあった。

ところで、被告は昭和四二年夏ごろから浮気心を起し当時株式会社甲野の従業員であった乙山春子と不倫な関係を持つようになり以後昭和四七年ごろまでの間一週間に一度ぐらいの割合で肉体関係を継続していた。右乙山春子は原告の遠縁に該り、原告の紹介で右会社に入社し、原、被告の住居にも何回か遊びに来たこともあり、原告とも親しかった。

被告は、その性格としてワンマンで自分の考えを人に押しつけたり、金銭面で細かい所があったが、乙山春子と関係を持つようになってから、その横暴さを増しささいなことでも立腹するようになり、原告に対し暴行を加えることもあった。そして、原告に渡す被告の給与の額も少くなったが日常生活に困るという程ではなかった。また、近隣とのつきあいにおいて、いやな面は原告におしつけるようになった。以前には、原告が株式会社甲野に顔を出したり、右会社の社員旅行に同行することに異議を述べずむしろ喜んでいたが、だんだんと、いやな顔をするようになり、また結婚式等に原告が同行するのを拒否するようになった。原告が家事に専念するようになってからも税金対策上株式会社甲野の従業員としてあつかい給与も出していたが昭和四四年三月には、それも打ち切り、原告を株式会社甲野の役員にするという約束があったがこれも実行せず、また原告に対し遺留分の放棄を求めたこともあった。その他、被告は、近所に住む女性を連れてきて、原告の眼前でふざけあったりしたこともあった。

原告は、被告の態度の変化や、被告には女性がいるといううわさを耳にしたことから被告が浮気をしているのではないかという疑を持った。そして、被告に対し何回か問いつめたことがあったが、被告は否定し、このことを原因として夫婦げんかが起こり被告が原告に対し暴行を加えたこともあった。これに反し原告が被告を虐待したことなどはなかった。しかし、昭和四五年暮ころまで原、被告の婚姻生活は平穏を保っていた。

原告が被告と乙山との関係について昭和四五年の初めころからうすうす気がついていたが、具体的に知ったのは同年一二月ころであった。原告はそれを知ってショックを受け叔母の月山秋子に原、被告の住居に来てもらい、立会のうえ、帰宅した被告に対し被告と乙山との関係について問い質した。しかし、被告は、乙山との関係を強く否定していた。被告に対する原告の詰問は被告が住居にいる間常にというほどではないが続いていた。

被告は、原告の詰問にいや気がさし、昭和四六年一月五日朝株式会社甲野に出社するといって住居を出、以後二回、被告の洋服を取りに家にもどったのみで、その後は先妻甲野月子との間に生まれた甲野一郎の住居に居住し原告の住居にはよりつかなくなった。同月中旬ころ被告が株式会社甲野の大阪支店に出張した際病気になり、原告がその看病のためおもむいたが、被告は、立腹し結婚指輪などをなげつけたりして原告を追い返し、また、同年二月六日被告が洋服を取りに帰宅した際、原告が同居を求め、帰宅しない理由をたずねたが、籍を抜けば戻るというのみで他に何らの説明もしなかった。被告はその後、被告と甲野一郎の家族が住むための住居を別の場所に求めることを計画し、一郎とともに、土地を購入し、その土地上に建物を新築し、そこに移り住み、原告と同居する意思を捨て離婚することを望むようになった。

被告は、昭和四七年三月三一日洋服を取りに、原告の住居を訪れたが、原告がこれを渡さず乙山の話などを持ち出したため口論となり、激昂して、原告を畳の上に引倒したり、手拳で頸や肩などを一〇数回殴打したり足蹴にするなどの暴行を加え、その結果原告に全治二週間を要する全頭部、左肩、左上腕、背部、腰部打撲傷、頸部打撲傷及び小裂傷、右前腕、左手捻傷等の傷害を負わせた。原告は被告の右暴行に対し多少は反抗したものの被告の一方的なものであった。原告は翌日、被告を傷害罪で告訴し、被告は同年七月七日神奈川簡易裁判所において罰金七〇〇〇円に処せられた。原告が受けた傷害は比較的軽いものであり、治療のため一回病院に通院しただけであったが、それまでに、右のような仕打を受けたことがなかったため驚愕し、それまでは別居後も被告との婚姻の継続を望んでいたが右暴行を受けた後は、場合によっては、離婚も止むなしと考えるようになった。

被告は、昭和四七年四月ころから丙川夏子と不倫な関係に陥り一か月に一度くらいの割合で約一年間肉体関係を有していた。右丙川は、原告が松屋デパートに勤務していたころの同僚で、原告とは同郷でもあり、親しく、原、被告の住居に遊びに来たこともあった。また、被告には、原、被告が共同生活を送っていたころから他の二、三の女性と関係があるといううわさがあった。

被告は、原、被告が別居するようになってから、原告の生活費として昭和四六年一月分、金二二万四三五〇円、同年二、三月分各金一五万円、同年四月分金一〇万円を支払ったが、以後その支払をしなくなった。そのため原告は、同年八月ころ横浜家庭裁判所に生活費の支払についての調停を申立てた。それとあい前後して被告も離婚の調停を申立てた。その調停の席で、原、被告間に調停継続中一か月金一〇万円を支払うという申合せが出来被告は同年五月分から昭和四七年一二月分までこれを支払った。しかしそのころ右調停がいずれも不調で終ったため、その後の支払をしなくなった。原告は昭和四八年ころ当裁判所に生活費の支払を求める仮処分を申請し、仮処分決定を得て同年一月分から昭和四九年八月分まで一か月金一〇万円の割合による金員を受領した。それ以後の分については昭和四八年ごろ原告が横浜家庭裁判所に申立てた婚姻費用分担の調停の席で、原、被告間に一か月金一〇万円の割合による金員を支払う旨の申合せが出来、被告は以後これを支払っている。そして右調停は、審判に移行し昭和五〇年三月五日横浜家庭裁判所において審判が言渡され婚姻費用の分担額がきめられ以後その額を支払っている。

原告と被告の別居期間は約一〇年となり、別居後原告と丁花春夫との間に生まれた子供らは全て結婚し別世帯をもっており、原、被告の間には子供はおらず、原告は原告の実父とともに原告の住居で被告からの仕送りを頼りに生活している。

現在、原、被告とも離婚を望んでいる。

《証拠判断省略》

以上によれば被告は円満な夫婦生活を続ける努力を怠り不貞行為を継続し正当な理由もないのに自ら家を出て原告と別居を続けているものであってこれがため原、被告間の婚姻はもっぱら被告の責に帰すべき事由により破綻し回復の見込がないものというべきである。

被告の前記行為は、民法七七〇条一項一号の「配偶者に不貞な行為があったとき。」及び同二号の「配偶者を悪意で遺棄したとき。」に当ると共に、原、被告間の婚姻関係は同五号の「婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。」に該当するから被告との離婚を求める原告の請求は理由がある。

三  慰謝料について

前記認定したとおり、被告の不貞行為と悪意の遺棄及び被告の責に帰すべき事由により婚姻が破綻したことにより原告が相当の精神的苦痛を被ったことは推測するに難くなく前記認定の諸事実に本件にあらわれた一切の事情を考慮すると、右苦痛を慰謝するためには金一〇〇〇万円が相当である。

四  財産分与について

《証拠省略》によれば次の事実を認定できる。

被告は昭和二七年頃、横浜市中区弥生町四丁目四四番宅地二一八・一四平方メートルにつき、賃借権を取得した。もっともこの土地は、戦前から先妻甲野月子の父が賃借権を有しており、戦後被告が経営していた甲野商店が利用していたものであったが、右甲野商店を昭和二七年法人としたのをきっかけに被告が賃借人となったものであった。右土地上には、以前から同所家屋番号一六番の三の建物がたっており、また、登記簿上昭和二八年には同所家屋番号二七番の建物が、昭和三四年には同所家屋番号一六番五の建物がたてられたことになっているが実際は、数度増改築をなし、その結果一つの建物の形態をなしている。この家屋を被告は、株式会社甲野に賃貸し賃料を得ており、また、株式会社甲野はこの建物を本店として設立以来利用していたが、昭和五三年他に本社を新設し、そこに移転したため、現在は、使用していない。右土地の賃借権の価額は少なくとも現在金二六〇〇万円はし、また、右各建物の価額の合計は金二〇〇万円を越えている。

被告は、昭和三二年九月ころ代金約金一八〇〇万円で大阪市南区順慶町通二丁目六〇番宅地一五六・二九平方メートルを購入した。この代金は、銀行から借入れて支払い、右借入金については月々返済をしていた。この土地上には木造の建物が四戸ほど建っていたがそれも一緒に取得し、右土地、建物を株式会社甲野に賃貸していた。被告は昭和四二、三年ごろ右木造建物を取壊し、建築費約金一二〇〇万円で鉄骨造陸屋根三階建倉庫兼寄宿舎一棟、床面積一ないし三階とも一二四・六三平方メートルを建築した。前記土地の購入のための借入金の返済は大体このころまでには終っていた。右建物の建築費についても銀行から借入れて支払い、その借入金の返済は右建物及び前記土地を株式会社甲野に賃貸し、被告が受領する賃料でまかない、建築後四、五年内に終了した。前記土地の時価は少なくとも金四五〇〇万円はし、また、右建物の家屋課税台帳による昭和五四年度の評価額は金一〇二八万九〇〇〇円であって少なくとも右評価額程度の価値を現在有している。

被告は、昭和三七年一月二五日、原被告の住居を建てる目的で横浜市港北区篠原北二丁目二四二三番、宅地二五五・四〇平方メートルを代金約金五五〇万円で購入した。右代金のうち金三〇〇万円については、原、被告が同棲する以前から有していた横浜市神奈川区白幡町の賃借権つきの建物を売却し、その支払にあて、その余の残金については他からの借金や、被告の収入、又は、被告の有していた預金から支払った。

原、被告はその後、右土地上に横浜市港北区篠原北二丁目家屋番号二四二三番木造焼付塗装鉄板葺二階建居宅一棟床面積一階一〇二・四五平方メートル、二階二六・四四平方メートルを建築費約金四二〇万円で建築し居住するようになった。右建築費の支払は、原、被告が同棲を開始したとき被告が原告に渡していた金約一〇〇〇万円の被告の定期預金の一部をこれにあてたほか、被告が他から借用した金や、被告の収入から支払った。被告は右建物を建築する当初から原告に与えるつもりであったが贈与すると贈与税がかかるため原告自身が建築したことにし、請負契約や、請負代金の支払、保存登記等も全て原告の名前でおこなった。そのため被告が取得した前記土地につき原告になんらかの権利を設定する必要があったし、また、右土地もゆくゆくは原告に贈与するつもりであり、その税金対策のためからも右土地の内三〇坪につき賃借権を設定したこととし、のちのちは賃借権を右土地全部に拡大することとした。しかし現実には原告が被告に賃料等の対価を支払ったこともなかった。被告は、本件訴訟に先だつ調停の時から右土地を原告に財産分与することについては了承しており、また、前記建物が原告の所有であることも認めている。右土地の土地課税台帳による昭和五四年度の評価額は金一二三三万八三七四円であるが、右土地は東横線菊名駅の近くの閑静な住宅街にあり、その位置環境等諸般の情況から現在の時価は少なくとも右評価額の四倍以上の価値がある。また右建物の昭和五四年度の家屋課税台帳による評価額は金一七五万五九七〇円であり少なくとも右家屋は右評価額程度の価値を有している。

被告は、昭和三七、三八年ごろ横浜市中区寿町所在の土地、面積約八五坪を購入した。その代金は明確ではないが、昭和四五年には右土地を坪あたり金二〇万円ないし金三〇万円総額約金二〇〇〇万円で売却し、その代金は被告が銀行預金とした。右預金は多少の増減はあったが、大体そのまま現在も残っている。

被告は、昭和三九年九月一七日先妻甲野月子と離婚しているがその際被告の預金の三分の一ないし二分の一ぐらいの額である金三〇〇〇万円の預金を月子に与えた。その他被告は昭和二八年二月月子と別居するに際しその額は明確ではないが若干の預金と三菱重工業株式会社等の株式を四〇〇〇ないし五〇〇〇株与え、また、被告が月子と共同生活を送っている間に購入し、月子の名前で登記し、居住していた横浜市西区東ヶ丘所在の約五〇坪の土地賃借権の付いた建物をそのまま月子に居住させ、月子の所有とすることにした。右株式はその後増資によってふえ、月子は一万一〇〇〇株を有することになった。また、被告は月子と別居後に右建物を月子や、被告と月子の間に生まれた子供のため増築してやり約七坪ほど広くした。月子は、後に右建物の所有権を取得している。その他、被告は、月子と離婚するまでの間月々、五、六万円の生活費を仕送りしていたし、離婚後は、月子に対する仕送りはしなくなったが被告と月子との間に生まれた三人の子供の中の一人に月々二万円ぐらいの仕送りを数年間続けていた。また、右子供達が結婚するに際してはそれぞれ結婚費用を出している。右子供達の一人である甲野一郎が昭和四〇年結婚した際には土地賃借権の付いた建物を購入し、右一郎に与え、居住させていた。被告が月子に対し離婚の際多額の預金を与えたのは、被告が戦後株式会社甲野の前身である甲野商店を経営するに当り、月子の父親から融資を受けていたことや、被告がほとんど無一文の時代に結婚し、三人の子供をもうけその子供達を養育するかたわら右甲野商店の仕事も手伝い、また、被告が結核で入院していた間右甲野商店の経営を、月子や月子の父親がしていたことや、当時すでに原、被告は同棲しており原告が被告に入籍を迫っていたことによるものであった。

被告は、先妻、甲野月子と別居後横浜市港北区篠原台町に賃借権つきの家屋を購入して丙田花代と同棲していたが、その後右花代と不仲になり原告と同棲を始めたころにはすでに別れていた。右花代と別れる際右篠原台町の家屋を売却し、その売却代金で横浜市神奈川区東横線反町駅の近くにアパートを購入し、それを右花代に与えた。その他、右花代には、花代が結婚するまでの間月々金一万円ぐらいを生活費として仕送りしていたが、花代が結婚してからはその送金はやめ、かわりに被告と花代との間に生まれ被告が認知した丙田冬夫のため保険をかけその保険料を月々金一万円ほど支払っていた。

被告と不貞の関係にあった乙山春子に対しては金二〇〇万円や、乙山がダイヤモンドを買うための金の一部を与えたほか、肉体交渉をもつたびに多少の金員を与え、また、乙山が株式会社甲野からもらう給与やボーナスを多少増額したことがあった。また、同じく被告と不貞の関係にあった丙川夏子にも肉体交渉をもつたびに多少の金員を与えていた。

原告と被告は昭和四六年一月別居したが別居後、被告は前記一郎に買い与えていた家屋に居住するようになった。右家屋は一郎及びその家族と被告が住むには手狭であったため居住家屋を他に求めることとし昭和四六年中ごろ右一郎とともに横浜市中区池袋三七番一〇宅地七〇一平方メートルを代金約金四〇〇〇万円で購入した。そして、右土地上に昭和四七年三月ごろ建物を建築費金一七〇〇万円ぐらいで建て移りすんだ。右土地の購入代金や建物の建築費については、一郎は、昭和三九年ごろから株式会社甲野に勤務するようになり昭和四四、四五年ごろには、取締役になっており多少の信用があったことから、一郎と被告が共同で銀行から借入れて支払った。その借入金については、一郎と被告の収入や、被告が一郎に買与えていた建物を売却した代金、被告が有していた株式を売却した代金等で月々返済し、現在はその支払を終っている。右土地については一郎が一〇分の七、被告一〇分の三の持分を有する旨の登記をなしており、また、右建物は未登記であり、被告は、被告と一郎が二分の一ずつ共有持分を有すると考えている。

被告は、原告と同棲を開始した時点で少なくとも金五〇〇〇万円ないし金六〇〇〇万円の預金を有していた。その預金の多くは無記名又は他人名義のものであった。被告は昭和三七年には約金六〇〇万円、昭和三八年には金七五三万九〇〇〇円の所得があった旨申告していた。右期間に被告が支出したのは次のものであった。

1  大阪市南区順慶町通の土地購入のための借入金の返済少なくとも金三六〇万円

2  横浜市中区寿町の土地取得代金少なくとも金五〇〇万円

3  横浜市港北区篠原町の土地、建物の取得代金金九七〇万円

4  税金昭和三七年度金二四〇万五五〇〇円、昭和三八年度金三三三万四二九〇円、合計金五七三万九七九〇円

5  原告に渡した生活費少なくとも金二〇〇万円

6  先妻甲野月子へ渡した生活費少くとも金一二〇万円

7  丙田花代又は、丙田冬夫に渡した金員少なくとも金二四万円

8  被告の小遣い少なくとも金五〇万円

9  その他株式取得費等

右支出した金員の総合計は少なくとも約金二八〇〇万円以上となり申告額をはるかに越えていた。右支出のうち明確に被告の預金が使用されたのは横浜市港北区篠原町の建物の請負代金についてであり、その他については預金が使用されたか否かは不明確である。右期間内にも被告の預金はある程度増加していた。

被告は、株式会社甲野の代表取締役をしておりかなりワンマンに右会社を経営していたほか、右会社の商品を販売していた被告個人の店舗を有しており、被告の収入の大部分は右会社の利益配当、給与、個人所有の店舗における売上であった。被告が原告と共同生活を送っていた期間中、取得した収入は、申告額では金八〇一六万二〇〇〇円であったが、実際はその額を越えるものであった。

右会社の資本金は原、被告が共同生活を送っていた間に金四〇〇万円から金一六〇〇万円に、その売上高は金三億八九〇〇万円から金八億三五〇〇万円に、正味資産は、貸借対照表上金二二七一万四三六三円から金九三一九万九九六五円にそれぞれ増加していた。

被告は、昭和四五年ごろ前記横浜市中区寿町の土地を代金二〇〇〇万円ぐらいで売却したが、その代金は預金とした。右預金は、多少の減額はあったが、ほとんどは現在も残っていた。被告の昭和四八年ごろの三和銀行及び富士銀行に預入れていた被告名義の預金は約金一九〇〇万円であった。被告の取引銀行は他にもあった。したがって、原、被告が共同生活を送っている間にその額は明確ではないが、ある程度の金額の預金が形成された。

被告は、原告と同棲を開始する以前から凸版印刷株式会社の株式七二〇〇株、株式会社野沢屋の株式一八〇〇株、東洋紡績株式会社の株式一二五〇株、株式会社小松製作所の株式六〇〇〇株を有していた。その後、被告は、原、被告が共同生活を送っている間に有償又は無償で右各会社の株式を取得した結果、原、被告が別居した時点では凸版印刷株式会社の株式については四万〇八〇〇株増加して、四万八〇〇〇株に、株式会社野沢屋の株式については、一二〇〇株増加して三〇〇〇株に、東洋紡績株式会社の株式については、一九九四株増加して三二四四株に、株式会社小松製作所の株式については、五八八〇株増加して一万一八八〇株を有していた。別居後、被告は、凸版印刷株式会社の株式のうち二万株を、株式会社野沢屋と株式会社小松製作所の株式についてはその全てを売却した。そして、昭和五三年ごろには凸版印刷株式会社の株式は四万四七二一株を、東洋紡績株式会社の株式は三三七四株を有していた。昭和五四年九月二八日の終値で凸版印刷株式会社の株式は一株金四九八円であり、株式会社野沢屋の株式は一株金三一六円であり、東洋紡績株式会社の株式は一株金一一九円であり、株式会社小松製作所の株式は一株金三四二円であり、仮に原、被告が共同生活を送っている間に被告が取得した株式が残っているとするとその増加した株式の時価の総額は少なくとも金二三〇〇万円である。

株式会社甲野は、昭和二七年被告が個人で経営していた甲野商店を法人にしたものであり、設立当初の資本金は金一〇〇万円であり、また、商号も株式会社甲野商店と称していたが昭和四一年に変更して株式会社甲野と称するようになった。被告が個人商店を経営しはじめたころ従業員は、三名ないし五名ぐらいであったが、法人にしたころには、二〇名近くの従業員がいた。そして、原、被告が同棲を始めたころには四〇名を越え、昭和四〇年で五〇数名、昭和四三年で七〇名、原、被告が別居を開始した昭和四六年では約八〇名であり、現在では一〇〇名を優に越えている。右株式会社甲野の総売上は、原、被告が同棲を開始した昭和三六年度で金三億八九〇〇万円、昭和四〇年度で金六億〇一〇〇万円、昭和四六年度で金八億三五〇〇万円と順調に伸び昭和五〇年度では金二九億円と飛躍的に増加したが、その後多少売上が落ちた。しかし、なお金三〇億円を越える売上がある。株式会社甲野はその売上が伸びるに従い資本も増加し、設立当初金一〇〇万円であったが昭和三一年に金二〇〇万円昭和三二年には金三〇〇万円、昭和三三年には金四〇〇万円、昭和四一年には金八〇〇万円、昭和四三年には金一六〇〇万円、昭和五二年ごろでは金三二〇〇万円になっていた。被告は、原、被告が同楼を開始した昭和三六年には右会社の発行済株式総数八〇〇〇株のすべてを有していた。そのうち、二〇〇〇株は被告名義のものであり、他の六〇〇〇株は、他人名義であった。そして原、被告が別居を開始した昭和四六年において、右会社の発行済株式総数は、三万二〇〇〇株であったが被告はその全部を有していた。その内一万七三〇〇株は被告名義の株式でありその余は他人名義のものであった。被告は、昭和三九年ごろ入社し、昭和四四、五年ごろ取締役になり昭和四七年には被告とともに右会社の代表取締役になった被告の長男甲野一郎を自己の後継者と目し、徐々に右会社の実権を与え、そのため原、被告が別居後被告の有していた株式を分け与えた。また、右会社の労務政策から、右会社の役員や、功労のあったものに株を与えていた。昭和五二年ごろには右会社の発行済株式総数は、六万四〇〇〇株であったが被告名義の株式で約二万四〇〇〇株、それに他人名義の株式を加えると発行済株式総数の約半数が被告が有するものであった。被告が右会社の株式の総数を全部有していた間、被告は右会社の実権をにぎりかなりワンマンな経営を行っていた。株主総会は開かれたことはなかったし、利益配当などもおこなわれず、右会社が上げた利益についてもかなりあいまいに使用されていたが帳簿上は一応整っていた。株式会社甲野は昭和二〇年代は個人企業の色彩が強かったが昭和三〇年代に入ってからは会社財産も充実して来、昭和四六年ごろからは株主総会や取締役会も開催し年に二、三割の利益配当を継続してきている。そして、少なくとも原、被告が同棲を開始した昭和三六年ごろには銀行筋では、被告と右会社を同一視することなく別個のものとして取引が行なわれ、現在においては完全に独立した人格となっている。

被告は、前記のとおり原、被告が同棲を開始した時点で株式会社甲野の発行済株式総数八〇〇〇株を有しており、別居した時点では発行済株式総数三万二〇〇〇株を全て有していた。したがって、原、被告が共同生活を送っている間に被告が取得した右会社の株は二万四〇〇〇株であった。また、原、被告が共同生活を送っていた間に増加した株式会社甲野の貸借対照表上の正味資産の額は金七〇四八万五六〇二円であった。また、昭和四六年当時右会社の株式一株が表象している貸借対照表上の正味資産の額は金二九一二円であった。その後右会社の売上が飛躍的に伸びたこともあって昭和五三年度の貸借対照表上の正味資産は五億一一六五万四九六〇円であり、昭和五四年における右会社の株式一株の評価額は少なくとも金四〇〇〇円を越えている。

被告は、原告と同棲を開始する以前から磯子カントリークラブ、戸塚カントリークラブ、横浜国際カントリークラブのゴルフ会員権をもっていたが、原、被告が共同生活を送っている間に東名中央カントリークラブのゴルフ会員権を購入した。右ゴルフ会員権のうち横浜国際カントリークラブの分については昭和四二年被告の長男甲野一郎に与えたが、その余は現在も有している。現在磯子カントリークラブの会員権は、金七〇〇万円以上の価値があり、戸塚カントリークラブの会員権は金一六〇〇万円であり、また、東名中央カントリークラブの会員権は少なくとも金一〇〇万円以上の価値がある。そして一郎に与えた横浜国際カントリークラブの会員権を被告が有するとすれば現在少なくとも金一一〇〇万円の価値を有していたはずであった。

原告は、株式会社甲野に昭和三四年四月嘱託として入社し週に一回勤務するようになったが、そのころ原告のデザインした衣服が新聞等に紹介され、その技能もかなりなものであった。そして、原告の株式会社甲野における仕事振りは熱心であり、週一回の勤務では足りず大低、仕事を家に持ち帰り徹夜ですることもあった。また、原告一人ではデザインの仕事が追いつかなかったため、同じデザイナーである丁原秋子を入社させ、右会社のデザインを行なわせた。被告と肉体関係を持ち同棲するようになってからは、被告に対する愛情も加わりますます熱心に仕事にはげみ、デザインの仕事のほか縫製、切断の下請の確保、その指導、会社の商品の展示会等の仕事に精を出し、その結果右会社の商品の品質を向上させ、売上も上がった。株式会社甲野は、その後順調に伸び取引先も増したが原告が関与していたブラウス部門は右会社の総売上の二割ぐらいをしめている。原告は右会社の発展にデザイナーとして貢献はしたが、自己の仕事としてなしたものであり、また、会社の発展の多くの部分は被告の手腕や、右会社の従業員の働きによるものであった。

原告は、被告と同棲を開始したころ松屋デパート、株式会社甲野の他二、三の会社のデザイナーをしていたし、また、戦死した先夫の公務扶助料を受けており合計で金一〇万円を越える収入があり、当時の婦人の収入としては高額な収入を得ていた。また、被告と同棲開始後は被告から、被告の給与を受取っていたがその額は明確ではない。昭和三九年ごろからはデザイナーの仕事は全てやめ、家事に専念するようになったが、株式会社甲野については税金対策上稼働していることとし、昭和四四年の終りころまで給与を得ていた。公務扶助料については被告と婚姻することによって失ったが、もし現在も存するとすれば少なくとも年額約金一五〇万円にはなっている。その他原告の収入としては、東京都品川区旗の台のアパートを他に賃貸しその賃料があった。

原告は、家事に専念するようになってからも株式会社甲野の従業員の面倒をみていたし、被告の親族とのつきあいも大体無難にこなしていたほか、被告が加入しているライオンズクラブの関係でのつきあいにも参加しライオンズクラブ主催の交換学生を自宅に招待したこともあった。また、被告の来客に対してもうまく対応していた。そして被告は以前結核にかかり肋骨を六本切除する手術を行ったことがあったため病弱でありその看護に意を尽した。現在、原告は、横浜市港北区篠原北二丁目の自己所有の家屋に居住し、原告所有の旗の台のアパートは、原告の子供を住まわせており、被告から送られる生活費の他は収入は存しない。

《証拠判断省略》

以上の事実、前記記載の事実及びその他本件にあらわれた一切の事情を考慮し、本件離婚に伴う財産分与としては、慰謝料については先に判断したのでこれを除き、夫婦財産の清算及び離婚後の扶養等として、被告は、原告に対し別紙物件目録記載の土地の所有権を移転し、これを原因とする所有権移転登記手続をなし、かつ金一億円を支払うべきである。

五  弁護士費用について

《証拠省略》によれば、原告は原告ら代理人に本件訴訟を委任し、着手金報酬金合わせて金一〇〇〇万円を支払う旨約したことが認められるところ、本件事案の性質難易、認容額その他諸般の事情を考慮し、原告に金一五〇万円の弁護士費用を認めるのを相当とする。

六  結論

よって、原告の本訴請求は、原、被告の離婚を求め、離婚による財産分与として金一億円の支払を求め、かつ、別紙物件目録記載の土地所有権を移転し、これを原因とする所有権移転登記手続を求める部分、及び慰謝料金一〇〇〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日であることが記録上明白な昭和四八年五月二三日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分、及び弁護士費用金一五〇万円及びこれに対する本判決言渡の日から民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからその範囲でこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九二条本文、八九条に、仮執行の宣言につき同法一九六条にそれぞれ従い、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 下郡山信夫 裁判官 松井賢德 姉川博之)

<以下省略>

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